昭和53年01月14日 朝の御理解
こういう場合には、こりゃ御の字をつけてよいのだろうか、と言った様な時もありますですね。御の字をつけようと思うても、御の字をつけられないような時があります。今朝がたから御夢を頂いております。善導寺の親先生、なくなられました親先生、それから今の親奥さんと、二人であの合楽に見えております。それで「どうぞ」というて、あのま招じ入れて、どっかの部屋でお茶でもさしあげにゃならんと思うて、どの部屋を開けてもどの部屋を開けても、いっぱいこうまぁろくそに散らかしてある。
もうちょっとこう片付けりゃいいと言う様なのでなくて、もうあいだん所にゃ畳もはぐった所もありゃ、押入れが真ん中に来てある所もありゃ、今食べたばっかりの食べ物がいっぱいその、お膳の上に上げてあると、もう「はぁ二階があったから」と思うて、二階に行ったら、二階ももうどこもここもが、その部屋がない。まぁようやくまぁ茶の間風の所へ行って、そこも一杯散らかってましたけど、まぁこう押しやってあのそこでお茶を差し上げておるところを頂いた。
そう言う様な場合、果たして御の字がつけられるだろうかと、そして私の心ん中に、もう若先生がろくそなかけんで、若先生がこげな事しとろっち言うちから思いよる、心ン中で思いよる。そしてまぁ人を責めちゃならんと言う事は、やっぱ夢ン中でも思っとるもんですから、「いやいやこれは全館がこげんろくそになっとるっち言う事は、これは私がろくそになっとる証拠だから、明日は黙って一部屋一部屋、何日がかりでもよいからかたずけようと」自分で思うておる所で目が覚めた。
そこに至りますときに、例えば「これは成程これは皆んながろくそなのじゃない、私がろくそなかけん、皆んながろくそなるんだ」というにして、あの頂けばまぁ御の字がつけられない事もないけれども、御の字をつける前に、やはりお詫びがいるなと言う事です。そして心ン中に思わして頂きよっとが、「はぁほんとに、善導寺の親先生ご夫妻で良かった」と思いよっとです。
まぁいうなら私の見栄かも、見栄のようなものかもしれませんし、あんまりきちっと整然と、例えばしてあるところへ、みえたらかえって親先生たち御夫妻に、もう本当に合楽は自分方ばっかり立派にして、綺麗にしてと思われんですんで、やはりなんか安心しなさりゃせんじゃろかと言った様な気持ちも、心ん中で夢ン中で動いてるんです。合楽合楽っち言うばってん、合楽ももうろくそなか。というふうに思われた方が、よっぽど気が楽になられるだろうと言った様な気も、心ン中に夢ン中で思ってるんです。
本当にそれは今まで、お粗末御無礼と思うて負った様な事でも、それが御の字をつけて頂けばいうならば、おかげは和賀心にあると、不浄穢れを払うのも自分の心一つで、それをまともに受ける事にもなりゃ、払う事にもなると仰る。そういうときに例えば御の字が本当につけられたら素晴らしいです。またつけられる内容であったら、素晴らしいです。けれどもどんなに考えても、お粗末ご無礼の方が先に感じる。「どうもすみません」の方が先に出るような状態のときにでも、御の字がつけられるだろうかと。
そこは人間ですからなかなかそんなに、ドライな考えは神様に対して、不遜な事になる。やっぱり詫びる所は詫びる。慎む所は慎ませて貰わなければならない。慎む事に精進しいうならば行き届いた信心を、いわゆる行き届いた生き方を、いやいっつも自分の心の中に、心行を頂いて、そしてそのいうなら片付けごと一つでも、心行即そうしなければおられないいうならば、心の状態でいっておって全てをいうならば、不可抗力とでも申しましょうかね。
人間の事ですからやむ得ないとか、どうしてもそうしなければならなかったと、かと言った様な所に、御の字がつけられるのであって、初めから慎みもなからなければ、ろくそになっとっても、それを平気でおったりいうなら心行が怠られておったり、してそこに起きてくる例えばその状態、有様という物はどんなに思うても、御の字はつけられない。もしそれに御の字をつけ、もう御の字さえつければというてドライな頂き方では、これは愈々いけないと思います。
昨日梶原先生が、今度の福引を頂いております、「成り行きを願い、成り行きを頂く」という風に頂いております。ですから私し共が本当に全ての事に御の字をつけて頂けれる様な、やっぱり成り行きを願わなければならない。成り行きを願う所から自分で、いうならば受けられる。合掌してまた受けられる。御の字をつけて受けられる。その願いがないところに、ろくそな事になるのじゃないだろうかと思うんです。
「心行させて下さい。心行にとものうた、いうならば、在り方にならせて下さい」と、そういう願いを持ちながら、起きてくるやはり事柄であったり、しなければこれならば、神様が自分で受けられる、御の字をつけて受けられるという、まぁいうならば余裕があるというか、自信があるというか。願わずに、突発的に、例えば起きてくる事柄と、時に、やはり、それをよう受けんことになってくる。
成り行きを尊ぶ成り行きを大切にさせて頂くと言う事、それは本当に素晴らしい事ですけれども、その私しで成り行きそのものを、本当に頂けれるいうならばその様な、願いというものが先になされる。昨日新年初めての13日会で、まぁおかげを頂きまして、皆さんの一人一人がほんのわずかな時間ずつでしたけれども、皆んなが発表なさいました。ですから皆さんが、例えば願っておられる事、今年こそはとこう思っておられる事が、例えば成就しない、言うならば元旦の計と言った様な事を申しますが。
新春にいうならば今年はこれでいこうと、というのが、今年の幹三郎の発表ではないけれども「改まります。磨きますで年が暮れ」と言った様な句を引用して、話しておりました。だから今年はどうでも「磨きました。改まりました。で年が暮れ」となるように、精進したいというような事を言っておりました。だから私し共の、例えば計を立てた事が、成就せずに終わってしまうと言う事ではなくて、金光様のご信心はそれこそ、願い以上のおかげが受けられるというのが御道の信心です。
三代金光様の御述懐のお言葉にございます。「始めの間はつろうてつろうて、よう泣いたけれども」そりゃそうでしょうね。13歳と言う様なまぁだ遊びたい盛りに、お父様がなくなられた。四神様がその後をお受けになられたのですから、ほんとに泣く泣く辛抱されたと思われます。「けれども辛抱しておるうちに、思う事もなくなり、欲しい物もなくなり、ただ有難うて有難うて」と言っておられます。思う事が無くなられた。欲しい物も無くなられた。その境地が有難うて有難うてと。
「そのおかげを受けておる事の、御礼の足りないお詫びばかりを、致しております」と言っておられます。「それでいつも願い以上のおかげを受けておる」と仰っておられます。この願い以上のおかげの受けられるのが、金光様のご信心だと。そこでなら私し共が全ての事柄、いうならば成り行きを尊ぶとか、大事にするとか全ての事に御の字をつけて、御事柄として受けて行くと言う、その生き方の中にはです、どんなに考えてもいうなら御の字が付けられない様な事がある所にです。
自分の辛抱力の足りない事を、だからこそ疎かになっておる事。心行心行と言いながら、心行がでけていない事。言うならば思う事もなくなり、欲しい物もなくなるどころではなくて、いうなら我情が我欲が、いっぱいになっておるときに、お粗末後無礼はでけるもの。我情我欲がいっぱいである時に、お粗末ご無礼がでけた、その事柄に御の字が果たしてつけられるか。
そりゃ自分の心次第だから、御の字をつけられる事もあろうけれども、人間だからと言った様なドライな考え方をすれば、つけられん事もなかろうけれども、それでは私しは願い以上のおかげにはなってこないと思うんです。それこそそう言う所をです、いうならば泣く泣くでも辛抱させて頂いて、辛抱の徳を身につけたい。願うていうならば願い以上のおかげが受けられる信心。いくらお礼を申しましても、お礼を申しましても足りませんのじゃと、だからお礼の足りないお詫びをしておると仰る。
やっぱり生身を持っております人間の、信心と言う物は。私しは最近あんまり言わなくなったですね。願いの信心と言う事を。一時はしきりに言ってました。ところが実際自分が取り組んでみるとです、願いの信心の難しさに、実はもうほんとにやはり最高峰といわれるが難しい事に気がつきます。ほんとに子のような心持で、親が親と分かれば、ひざに縋っていけれる。それが片一方では赤子のような心になっておるかと思うと、一方にはそれこそ大人になっておる自分に、気づかしてもらいます。
そこにはです。「大人になっておって、そう言う事も出来んのか」と何かお叱りを受けるような感じの所に直面するです。ただ詫びれば許してやるというのが親心だからと言うて、いうなら改まりもせずに詫びた所で、それは通じるはずありません。「お許しください。お許しください」と言えば許されるのじゃない。改まって詫びるから許して下さるのである。もう一生涯しませんと、例えば詫びるからおかげにならんのです。
今日私しはある方の事をお願いしておった、大変今修行中なんです。そしたらあれを天地というか知らんですけれど、あの鼓を頂いたんです。そしてあの両方に所謂こう叩く所がね、その天地が取れておるとこう頂くんです。言うならばあの千鳥がけになってずっとこう、それをぎゅっとこう締めあげてあるんです。所が肝心要の天地が取れとるわけ。あの叩く所が。太鼓になる所があのはげておる。だから締め上げられるばぁっかりで、千鳥掛けになるばぁっかりで右と願えば左、左にと願えば右と言う事ばぁっか。
そしてそのように締め上げられておるけれども、天地がかげておる。と言う事を頂いたんです。「はぁ今はよか修行ばいよか修行ばい」とだけ言うておれん事になるです。詫びる所は詫びて、そしてなら最近いわゆる天の道、地の道を本気で行じなければ、いかにいうなら千鳥がけの締めが、上げた上にも締め上げておっても、また締め上げられておっても、これはいつまでたっても良い音色と言う事にはならない。そういう人達いくらでもあるんじゃないかという風に、改めて思わせて貰いました。
よか修行しよるです。神様がさせてござる。大変な人間関係に金銭関係に、体の上にまぁ色々と修行をしておるんです。ところがそのまぁほんとに、修行として有難いとお礼を申しあげておってもです、天の道地の道を行じなかったら、いわば良い音色になってこないわけです。そういう難儀そういう修行を感ずるときにです。天の道を知り地の道を分からせてもろうて、初めて私しは良い音色が出ると言う事になります。
今日は私しが皆さんに、御の字とこう申しておりますけど、どんなに考えても御の字をつけられない事がある。そういう時こそです私共はいわば天の道地の道を、愈々行じさせて頂かなければならない時だと言う風に、思うんです。例えばお水ならお水、お米ならお米をね、御もうご神水と同じ事だと、こりゃもうご神米と同じだと言う風に、頂いておると致しましょうか。そのなら頂いておるものをです、まいうならろくそにしておると致しましょうか。それに御の字がつけられますか。
ほんとにお粗末御無礼にならんようにという言うならば願いと、そしてそこに精進と言うものがあって、初めて御の字がつけられるのじゃないだろうか。それでいてそんなら流しの先にまで落ちた物を拾うて、拾えと神様はおっしゃらんのです。けれども人間としてのというか、信心させて頂いておるものとしてのです、お水ね御神水なら御神水。御神米なら御神米として頂くものが、そのどこかにこう現れてこなければいけない。それでなおかつ漏れておった、こぼれておったというならね。
そこはです私しは、神様をそう言う所を、神様は責めなさると言う事はないと思う。ある人が生まれた、赤ちゃんがやどった事が分かったから、どうしても出さなきゃあのうせにゃいかん。昔なら堕胎と言う事で大変な、罪を犯す事になるますけど、今はもうそう言う事ではない。もうそれは当たり前の事の様にして、皆んなが致します。けどもそれに非常に引っかかって、あのう神様にその事をお詫びをして頂いて、というまぁ行き届いたお願いであった。
そしたらあのう神様から流しばたに、お米が散らばっておる所を頂いて、神様の目からご覧になればね、いうならばお米が流しばたに、粗末になっておるくらいなものだよと。だからお詫びをさせてもろうて、そう言う事それをする事は、それがご無礼にはならないよと言う事であった。ある時わたくし、昔、御本部参拝をさせて頂く時、心になんか呵責のような心を咎める様な事柄があったから、一生懸命その事をお詫びさせて頂いて、丁度あのう、八幡を通るときでした。
その一生懸命お詫びさせせて貰いよったら、あのう八幡のあの製鉄所の煙で、もうそれが真っ黒にこう、あのうもう煙が上がっておる所を、あのう神さまが言うて下さってね、「お前が詫びておる事は、このことだけれどもね、大空に向かってあの煙が出とっても、そん煙というのはどこへ行くやら分からん位な事だ」という意味のことを頂いたことがあります。それで心がすっきりするわけですがね。心にかかっておっては、やはりそれがやっぱりおかげになりません。
だから分かるところは分かり、詫びるところ詫びる。又は慎むところは慎む。精進させてもらうところは精進させて頂いて、昨日13日会で皆さんが発表になりました一つ一つの信心の歩を。今年合楽にかけられておるその願いを、まぁ皆さんが見事に、まぁ一言づつの中に発表されましたが。「磨きます改まりますで年がくれ」では、成就しない事になりますから。どうでも「改まりました。磨きましたで年がくれ」というおかげを頂く精進が、全ての事に成り行きを大事にさせて頂きながらしかも。
お粗末ご無礼がない様に、成り行きを先ず願わせて貰え。そして成り行きを大事にさせて頂く。そして心行に伴うた所の、ろくそな事のない様に、どこまでも御米を御神米として頂き、お水を御神水として頂く様な生き方頂き方。そこになら辛抱力を頂きそれこそ我情を取り我欲を取る。思う事もなくなり欲しい物もなくなると言う事は、これはそれこそ泣く泣くでも、辛抱しなければならない所でございましょうけれども。
その辛抱が徳になるようなおかげを頂いて、それこそ願い以上のおかげ。新春に思うた。こりゃこれだけの事をと思うておった事以上の、おかげの頂けれる様な信心、それには全ての事に真実、御の字がつけられるような。どうもこの事だけには御の字がつけられれんだ。お粗末であるご無礼である。あたしが夢んなかで思うた。「これはもう自分が悪いのだから、人に言うたって仕方がない。これは若先生がろくそなかから」と一時は思うたけれども、「いやいや、そうじゃない。
私がろくそないからだと」「もう明日から一部屋一部屋、黙っていうなら片付けよう」とまぁ心んなかに、まぁ私しが思っておる。その一つ一つをお詫びをさせて頂きながら、片付けている。そこに私しは今日は、三代金光様の御述懐のお言葉をです。ただ素晴らしい御教え、素晴らしいお言葉だと、素晴らしい金光様のご信心だと、言うて聴くだけではなくて、自分の生活の上にも、それを頂けた時に、初めて全ての事に御の字がつけられるような、おかげがいただけるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。